2015年8月28日金曜日

自分の内面をどうやって見るか、みたいな話 コメント返し

画像と本文は殆ど関係ありません



先日アウトローな人達(893とか連合的なアウトローではないっす)と遊んだので、その事でも書こうかと思いましたがコメントを頂いたのでそれについて書こうと思います


当記事とは異なるコメントになりますが、筆者さんは意識が内面に向かうのを嫌い、外に意識を発信していこうというような姿勢が見受けられますが、もしそうであれば理由を教えて欲しいです。 皮肉っているわけではなく、純粋な理由を求めての質問です。

とコメントを頂きました。
まさかこんなグダグダなブログでコメントを貰えると思わなかったので嬉しく思っています、良ければまたいらして下さい
しかし“匿名”というお名前でこの内容を書かれるのは少し怖いものがありますね、実際に会ったことがあろうとなかろうと、このような形で匿名という名前を使われるということは、相手のことを見ずに何かを書かなければいけないわけです、つまりコメントをくれた方に対して文章を書くことはできず、自分と語ることを強制されるということのような感じがします、そこまで読んでいて匿名という名前を使っているのだとしたら、もはや…
二の句が継げないという言葉がピッタリ当てはまる状態です


本題に戻ります
このコメントをいただいて結構長い時間考え込んでしまいました、うまく書けないかも知れませんが自分なりの答えを書いていこうかと思います

意識が内側に向かう、というのは自分の内面に意識を向けるということだと思います、「意識が内側に向かうのを嫌い」とコメント頂きましたが、恐らくそうではないと思います
自分のことなのに「思います」っていうのも何か変な感じがしますが…
むしろ自分の内面と語らうためにブログをやっている気がするのですけれど、外から見えるとそう見えないのかも知れません

人間は最も高い知能を持った動物、ということに異論を唱える人は少ないかと思います、もしかしたらエイリアンとかが実在して、そっちの方が知能が高かったりするかも知れませんが…
少なくともバッタとかメダカとかは「自分はどこから来てどこへ行くのか」とは考えないのではないかと思います、その辺は詳しくないので違ったらすいません


でも知能を有しているって、考えようによっては無駄かも知れませんよね、目的が生命維持と繁殖だけだったらゲーセン行ったりゴムつけてセックスしたりする必要ありませんから、もちろん食事も栄養価さえ高ければよくて、美食への探求みたいなものも必要ないでしょう、ちなみに昨日は寿司を食いました
なまじ知能がある故に無駄なことを考えている状態なのかもしれません、いやまあ人間に産まれても無駄なこと考える余裕がない地域の人もいるとは思いますが


喰う寝るセックスの三大欲求を効率よく満たすシステムを知能によって構築した結果、社会が発展し快楽(セックスセックス言ってますけどセックスそのものの事じゃないですよ)に価値を見いだしたり、他者との関係に気を煩わせたりしなければいけないのでしょうね


まぁでも、人間に産まれた以上それは避けられないことでしょう、避けられないということは嫌でも考えなければいけないと言うことで、誰でも自分や他者のことを知るために葛藤していることでしょう

でもそれって、社会性というか社会があるからこそ起こる考え方ですよね、もしこの世に人間が自分一人しか居なければ多分こんなに悩んでないと思いますし、ブログなんかやってないでしょう、その前にインターネットがないでしょうけど
つまり、今こうして生きているという事は他者とのかかわり無しには生きられないわけです、他者と関われば嫌でも他者は目に入る、目に入れば分析せざるを得なくなる、分析したら意見を持たざるを得なくなる…

たまに「他人に興味はない」みたいに言っている人がいますけど、アレだって他者を自分なりに分析して、関わる価値がないと判断したからそうしているわけで、決して自分ひとりと語り合った結果その結論を出したわけではないと思います、つまり人は生きている限り他人から影響を受けることは避けられないことなのではないでしょうか
それは自分も誰かに影響を与えているということに他ならないのですけれど…

何が言いたいのかというと、一言でまとめるのは難しいのですが「自分の内面を見るためには、他者と語らうほかない」と思っている、ということです
他者が全て、みたいに言い切ってしまうと誤解が生まれそうなので一応書いておきますが、自然の産み出したものや四季などに感銘を受けることも勿論あります、ただアマラとカマラが四季の移ろいなどに感動するかと言えば、多分しないんじゃないかと思います
この世に人間が自分しかいない世界だったら、今人間が考えているように自分の事を知るということは絶対に叶わないでしょう、それは人間が自分一人では自分の内面を覗き込めないということだと思うのです
コンパスを持たずに遭難したら北極星を探せ、みたいな話がありますが、あんな感じで他者との繋がりの中から自分の位置を探すというようなイメージでしょうか…

もっといい例えが浮かびました
天井と床以外の四方がすべてガラスしかない暖かい立方体の部屋に自分が閉じ込められている。
外はとても寒いらしく、ガラスの内側が結露している。
自分の姿を確認するためにはどうしたらいいか。
方法はただ一つ。結露を丁寧に拭いていくしかない。
結露をきれいに拭いたガラスには、自分が映っている。
その結露を丁寧に拭いていくという行為そのものが、他者と語らうこと、コミュニケーションであり、それによってしか自分を見る手段と言うものはない。
自分のことを考えるのは、自分を見た後でいい。


みたいな感じが今の自分の考えに一番近いかと思います

結露した窓ガラスに指で「理想の自分」を書いている人もいると思います
もしかしたら俺の普段感じている怒りはそこにあるのかも知れないと少し思いました、機会があればこのことにも触れていきたいと思います
指で結露をなぞっても、水滴は指を離した瞬間に理想の自分を引っ掻いて落ちていき、書き終わった頃には、水滴でボロボロになったいびつな鏡面が、こちらを見つめているだけではないでしょうか
そうならないために、人と対峙するときには自分の持てるものをなるべく出していきたいと思っています

結露を拭いてもまた結露して、それを拭いてまた結露して…
拭き続けることにゴールはあるのか、そして自分が見えるとはどういうことなのか、見えたところで何が待っているのか、そもそもこれが正解なのだろうか…
それは今はわかりませんけれども、とりあえず手に持っている布が使い物にならなくなる迄はガラスを拭き続けたいと思っています
お返事になったかどうかは分かりませんが、これがコメントを読んで自分が考えたことです、質問の意図するところとズレていたらすみません
最後にひとつだけ

もしコメントくれた匿名さんが俺の知り合いでも、この話はしないでください、恥ずかしいので…

ふざけた部分が全くないのでこっ恥ずかしいと思い関係ない画像を貼ってみようと思いましたが最初に貼ってしまっては意味がなかったです、それではまた

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